「Agatha」は、1979年公開ののイギリス映画(日本では「アガサ 愛の失踪事件」)。
1926年のアガサ・クリスティー失踪事件についての映画のような印象がまずありますが、この映画の脚本担当キャスリーン・タイナンの小説「Agatha」がベースです。小説は、失踪事件にいくつかのフィクション要素が追加されています(この著者の「The Summer Aeroplane」がベースであるという情報も見かけますが、これは誤情報かと思います)
また「スリラー映画」として分類されていますがスリラー感はなく、個人的には気になる点がいくつかありました。
実際にアガサ・クリスティーはイギリス・北ヨークシャーの「ハロゲート(Harrogate)」という町で発見され、撮影の一部もハロゲートで行われました。キャストは、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ダスティン・ホフマン、ティモシー・ダルトンなど。彼らの若い頃の姿を観ることができます。
オープニングタイトルは、夫アーチーに贈る銀のカップに施されている彫刻を見つめるアガサ(ヴァネッサ・レッドグレイヴが若い!)。この時の夫婦間にはかなりの温度差がありました。(画像は引用目的で使用しています)
Agatha(アガサ愛の失踪事件)
アガサ(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)が夫アーチーの職場を訪ねて贈り物を渡しても、アーチー(ティモシー・ダルトン)はありがたがる様子もなく、どこか冷淡。
アガサは新作小説「アクロイド殺し」の成功を祝う「文学昼食会」に出席する予定で、しぶるアーチーを同席させます。昼食会でのアガサは人前で話したがらない様子で、コメントも最低限にとどめ、すぐに着席します。シャイというより精神的にやや不安定な感じ。夫の職場で秘書ナンシー・ニールと出くわし、彼女が夫の愛人だと知っていたからでしょう。
会場には人気コラムニストのウォーリー・スタントン氏(ダスティン・ホフマン)が取材のために参加。アメリカから訪英中の彼は壇上にいたアガサに興味を持ちます。
翌日のアガサ宅では、朝食の席で、アーチーは秘書ナンシーを愛しているとして離婚を要求します。冷たい態度で、一方的かつ圧力的。当時は戦争の影響もあって、このような気質の男性が多かったのかと思ってしまいます。すがりつくアガサを振り払い、夫は出かけてしまいます。
アーチーはアガサに会えるかと訪ねてきたスタントン氏と家の前で鉢合わせになり、敷地内に侵入してきたとスタントン氏を追い返します。横柄なアーチーと落ち着き払ったスタントン氏が対照的です。
しかしその夜、アガサは一人で車で出かけて事故を起こし、そのまま失踪します。翌朝、地元住民が乗り捨てられた車を発見し、警察はそれがアガサ・クリスティーのものであると特定。警察やメディアは自殺説を濃厚視します。アーチーは動揺さえせず「自殺など馬鹿げている」と一蹴し、むしろ、彼の不倫が公になるのを避けたい様子。離婚する気満々だったのに、面倒な事態になったと思っていたのでしょうか。(実際には、アガサの失踪後すぐに、アーチーとナンシーの関係が大きく報道されました)
アーチー役のティモシー・ダルトンは「007 リビング・デイライツ」「007 消されたライセンス」でジェームズ・ボンド役を2回務めています。
若いヴァネッサ・レッドグレイヴの青く大きな瞳が美しいです。彼女について「白鳥のようだ」というコメントを見かけましたが、長身でエレガント、儚いたたずまいがその通りだと思います。また、この頃のダスティン・ホフマンも若々しく凛々しいです。
それにしても、美しい家の中や街、建物、人々のファッションといったディテールを観るのも楽しいです。
北ヨークシャーへ向かうアガサ
電車に乗ったアガサの行先は、当時バース(Bath)と並ぶぐらいに栄えていた北ヨークシャーの温泉地ハロゲート(Harrogate)という町。アガサは、愛人ナンシーが減量のためにハロゲートでスパ・トリートメントを受けるという情報を得ていました。
イギリスではNHS(National Health Service)が1948年に始まる前、温泉やスパでの療法は健康や治療の目的で一般的に利用されていました。特に19世紀から20世紀初頭にかけては、温泉地や水療法施設(hydropathic hotels)で心身の回復を目的としたプログラムが行われ、その中には減量や体調管理のための食事療法・運動・水治療も含まれていました。
到着した駅は「ハロゲート駅」かと思いきや、撮影地はヨーク(York)とのこと。
列車はハロッズ色のような深緑で、「LNER 4474 Flying Scotsman(フライング・スコッツマン:空飛ぶスコットランド人)」と表示されています。(実際は「LNER A3形4472号機」、ロンドンとエディンバラを結ぶ急行列車)

アガサは、タクシーで「オールド・スワン・ホテル(The Old Swan:当時は「ハロゲート・ハイドロパシック・ホテル」)へ向かい、2週間分の部屋を予約。当時はいくつかのホテルに温泉施設が併用されていたり、スパ施設もたくさんありました。アガサは、ケープタウン出身のテレサ・ニールという名前でチェックイン。愛人ナンシーの苗字を使ったのです。
アガサは温泉治療を受けていたイヴリンと親しくなります。そして、愛人ナンシーがハロゲートに到着したかどうかをまめに確認し、イヴリンにはナンシーが親戚かもしれないと気になっているふりをします。
温泉施設を利用すると、設備の仕組みに大いに興味を示すアガサ。まるで探偵小説の準備をするかのように調査し、ノートに詳細に書き留めていきます。スタッフの本棚から本を拝借し、ガルバニック浴やベルゴニックチェアといったスパトリートメントを調べ、さらにスタッフに機器の操作についての質問までします。
ガルバニックバス(Galvanic bath)は、19世紀後半〜20世紀初頭の電気風呂療法(電解浴)。ベルゴニックチェア(Bergonic chair)は、1920年代頃に使われた装置で、全身に低強度の電気を流す治療器。椅子に座って電極を体に当てる。
アガサが利用した温泉はハロゲートにあった「ロイヤルバス(Royal Bath)」。通りには馬車が通っていた時代で、温泉施設は医療として使われていたこともあり看護婦がいました。カウンターには飲料用の温泉水もあります。ロイヤルバスの温泉水は弱炭酸水で人気があったそうで、近くのロイヤルポンプルームの温泉水は性質が異なり、硫黄の香りが強かったとのこと(ただし、これが体の中の寄生虫を退治するのに役立っていた)。


大規模な捜索が開始
メディアでは人気作家の失踪の話題で持ちきりの状態。
妻が行方不明だというのに非協力的なアーチーに警察は疑問を抱きます。捜索は大勢の人を巻き込み、ボランティアも多く参加。飛行機による捜索も動員されました。夜には松明(たいまつ)が用いられています。

スタントン氏もアガサ・クリスティの失踪を追います。彼は、地元記者やアガサの秘書からアーチーの不倫について知らされます。特にアガサの秘書は、タイムズ紙の個人広告欄を見て、アガサの無事を確認していると打ち明けます。アガサは広告欄と暗号を組み合わせて秘書に知らせていたのです。スタントン氏は、その投稿主が「テレサ・ニール」であったことから、アガサが愛人ナンシーを追っているのではと考え、自らもハロゲートへ向かいます。
ハロゲートに到着したスタントン氏は、偽名でアガサに近づき、自分は便秘の治療で滞在していると説明。二人は友人関係になり、彼はアガサに惹かれていきます。アガサも当初は警戒していたものの、スタントン氏に対して悪い印象は持っておらず、一緒に踊ったり泳いだりと楽しい時間を過ごします。しかし言い寄るスタントン氏を、アガサは巧みにかわします。
人気作家アガサと人気コラムニストスタントン氏は、どちらも新聞に掲載されるような有名人という共通点がありました。しかし当時の新聞の画像は粗かったせいか、アガサの顔は北ヨークシャーでは割れにくかったことと、スタントン氏の記事には似顔絵だけが掲載されていたため、アガサも彼の素性に気づかなかったのです。
しかし個人的には・・・、二人の身長差が気になって気になって・・・さほど感情移入できませんでした(他にもそう感じる要素はいくつかありましたが)。180センチの高身長のアガサと170センチに満たないスタントン氏がダンスをする様子は、姉と弟のように見えてしまう・・・。二人は一度キスをするのですが・・・、アガサがスタントン氏に合わせて身をかがめるのです・・・。
若いリズ・スミスがアガサの部屋を担当するメイド・フローラ役で登場します。彼女は「The Vicar of Dibley」のレティシア、「 Lark Rise to Candleford 」のジラ、「キーピング・ママ」のパーカー夫人役など多数に出演。
アガサの意図を追うスタントン氏
スタントン氏は、アガサが地元の電気店で何かを購入しているのを見て、自分も同じ店で同じものを購入してその意図を確かめようとします。アガサが購入していたのは、スパ・トリートメントで使われるベルゴニックチェアのコントロール部分(レオスタット、可変抵抗器)でした。スタントン氏は、アガサが温泉施設の設備で致命的な事故を引き起こす方法を研究しており、この知識を使ってナンシーを殺そうとしているのではないかと疑います。一方のアガサは、自室でノートに設計図を描き、ベルゴニックチェアのマニュアルを読み込み、レオスタットの操作を試みます。
愛人ナンシーがホテルに到着したことを知ったスタントン氏は、彼女に話しかけて近づこうとします。アガサもナンシーの到着を知り、電話で温泉施設のスタッフを装い、ナンシーのスパ・トリートメントの予約時間が早まったことを伝えます。翌朝、ナンシーが指定された時間にやって来ると、アガサはカーテンの陰から「スイッチを切って欲しい」と依頼します。
ナンシーは「オン」と「オフ」のダイヤルが故意に入れ替えられていたことも知らず、何の疑いもなく言われた通りにスイッチを入れてしまいます。すると強い電流が流れ、大きな火花が散り、そこにはベルゴニックチェアに座っていたアガサが感電していたのです・・・。
アガサの計画に気づいたスタントン氏は、ナンシーの叫び声を聞きつけます。

フィクションな部分
史実では、アガサはこの11日間の出来事を覚えていないとしており、「記憶喪失」とも診断されました。また、彼女の自伝でもこの件について詳しく語られることはありませんでした。
映画ではアメリカ人記者スタントン氏がアガサを追跡するうちに恋に落ち、彼女を救う中心人物として登場します。が、実際にはそのような記者やロマンスは存在していません。また、ホテルで知り合ったイブリンも実在しません。そのため、愛人ナンシーへの復讐やアガサの自殺計画はフィクションです。
実際のアガサは「テレサ・ニール夫人」としてチェックインし、匿名のまま過ごしながら、スパ・トリートメントやダンス、ブリッジ、ショッピングなどを楽しんでいたといわれています。
アガサが実際に滞在したホテルは(1926年当時)「スワン・ハイドロパシック・ホテル(Swan Hydro、The Hydro、Harrogate Hydroなどと呼ばれた)」という名称でした。1950年代に現在の「オールド・スワン・ホテル(The Old Swan)」に改名され、映画には「The Old Swan」が登場しています。
映画の中の記者会見で、夫アーチーはアガサが病気だったとコメントし、取材陣から愛人ニールについて問われると憤慨します。実際、アガサの失踪前に彼女の母親が亡くなっており、彼は気落ちしていたアガサの支えになることはなかったとのこと。アガサが母の遺品を一人で整理している間も、彼は愛人と会っていたといわれています。
すべてイギリスで制作されていたら・・・
映画制作には、資金の大部分がアメリカから提供されていたため、イギリスとアメリカ双方のスタッフが関わる複雑な共同制作になり、文化的・制作上の考え方の違いや権限の衝突が生じ、作業が複雑になったとのこと。キャスリーン・タイナンの脚本でスタートしたものの、追加の脚本家が加わり改稿が行われ、オリジナルの意図やニュアンスの一部が失われたとされています。
個人的には、タイトルが「Agatha」なのに、フィクション要素のダスティン・ホフマンが共同主演であることにちょっとモヤモヤしました笑。これは、ダスティン・ホフマンが主演または同等の役の契約だったということです。そして彼は制作面にも関わっていたため、自身の役をより良く見せるためだったり、進行上必要だと感じた部分について脚本の修正や再撮影を提案したため、さらに複雑化したといいます。失踪にまつわるアガサの心理描写が重要とされるところ、ハリウッドのトップクラスの俳優のためのシーンやロマンスを加える必要が出てきたということですね・・・。
前述のとおり二人の身長差が気になっていましたが、スタントン氏がアガサを蘇生させたシーンでは、「感電時の措置として適切なの?」とこれも気になってしまいました笑。
キャスリーン・タイナンの脚本に厳密に沿ってイギリス国内で制作されていたらもっと違った作品になっていたと思います。
おわりに
この映画は「スリラー」に分類されているものの、スリラー感はあまりなく、伝記や恋愛にも当てはまらないように感じます。
ヴァネッサ・レッドグレイヴのエレガントで繊細な雰囲気の中にある何かを秘めたたたずまいは魅力的だし、1920年代のハロゲートの温泉施設の雰囲気や、ホテルの内装の美しさは見応えがありました。1920年代のアガサのファッションもスタイリッシュで仕立てが良いのが印象的でした。
ヴァネッサ・レッドグレイヴは、ロザムンド・ピルチャーのミニシリーズ「The Shell Seekers」のペネロピ役など多数に出演しています。




